外国のクルマに乗るということはその国の文化の一端に触れることである。なんちゃって大上段に振りかぶって偉そうに始めたけれど、なにもそんなに大げさなことではない。文化などという曖昧な概念を持ってこなくてもいい。つまりクルマはその出自たる国のある部分を鮮やかに表出する工業製品に違いない、ということだ。フェラーリとポルシェを並べて、たとえば両方の内装をばらしてみればよくわかる。ちょっと前までのフェラーリは、ドアの内張りの中からワイングラス片手に、ナポリあたりの陽気なシニョールがひょっこり出てきそうな出来映えだったし、一方ポルシェはちっぽけなパーツひとつにもMADE IN GERMANYの刻印が眉間の皺みたいに、でもどこか誇らしげにそこにある。
イタ雑にあった古いパンダなんて、ルーフの内張りを剥がしたら、ルーフ裏に電気配線が梱包テープで適当に留められていて、しかもそのテープには57x7+12みたいな算数の計算式がマジックで走り書きされていた。何の計算じゃい、これは? 確か答えは書かれていなかったと思う。まあ、とにかく、ことほどさように、僕らが直観的に、そして類型的に捉える「イタリア」満載でパンダは日本にやって来ていたのだった。そして、こういう経験をひとつふたつと重ねていけば、当然のように興味がわく。行ってみたくなる。どこに? いや、それは……、もちろんイタリアです。ということで、実際にはるばるイタリアまで足を運んだイタ雑のお客様もたくさんいる。愛憎相半ばするイタ車の故郷はどうなっているのか?の旅である。
イタ車の今を知りたいなら、昨年リニューアルオープンした『トリノ自動車博物館』に行けば手っ取り早い。リニューアル前に比べて劇的に良くなった。どれほど良いかといえば、イタリア人がこれをやったとはにわかに信じられないほどに良いのである。あとは、イタリア(製品)の常で、最初は良くてその後どんどんテキトーになる、クルマでいえば後期型より初期型、という法則が適用されないことを祈るばかりだ。とにかく、新しい『トリノ自動車博物館』はいい。展示に情感溢れるストーリーがあって、古いクルマから新しいクルマを辿る順路にしたがって進んでいくと、「そうかぁ、こういう時代だったんだ」と感慨を覚えること間違いない。フォーミュラカーの展示を前にすれば「イタ車ってやっぱり凄いなぁ」とも思うはずだ。僕などこの博物館に何度か足を運んだけど、一度たりとも梱包テープや計算式のことは思い出さなかった。それはともかく、そこで僕がいちばん感動したのは地図なのである。これを見て今現在と比べてみれば、イタ車の故郷の現状が手に取るようにわかる。
その地図は博物館のひとつのコーナーの床一面、下からバックライトで照らし出されて展開されている。その上を歩いて足元の地図を眺めていく仕掛けだ。航空写真から起こしたその古いトリノの地図には、FIATやLANCIAやABARTHはもちろん、ちっぽけなカロッツェリアまで、かつてトリノにあった自動車関連の施設がすべて網羅されている。CONREROもALEMANOもある。初めて目にするようなカロッツェリアの名もある。とにかくトリノという大きな街のいたるところが「自動車」なのである。そしてそのほとんど、おそらく90%以上の施設が今はもう存在しない。そういう現実を博物館の大きな地図が教えてくれる。イタ雑のお客さんならその場で愕然とするだろう。イタ車の故郷を辿り歩くセンチメンタルな旅人なら、「今」を嘆き悲嘆の涙で視界をちょっぴり曇らせるかもしれない。イタリア人の手になるものとは思えないほどに緻密で整然とした博物館の展示は、皮肉なことに今現在のイタリア自動車産業の窮状を、新聞のどんな経済記事よりも的確に僕らに伝えてくるのである。
だが、しかし、と僕はまだここで逆説の接続詞を選択したい。そしてアメリカ映画『草原の輝き』(エリア・カザン監督)の一シーンを思い出そう。主演のナタリー・ウッド扮する女学生が、教室で教師から指名されワーズワースの詩を朗読する。その一節。
草が輝き 花が香る
あの時代が再び戻ってくることはない
でも嘆くのはよそう
残されたものの中に、生きる力を見つけよう
どっこいまだ生きてますぜ、と言わんばかりのクルマが、イタリアからきっと出てくるはずだ。それは豪華、流麗なサルーンでなくても、パワーウォーズへの参戦を目指すスポーツカーでなくても、そんなもんじゃなくったって全然OKなのだ。いつか人生の第3コーナー辺りでホロッとしてしまうような、そして、生きてることもそうそう悪いもんじゃないと思わせてくれるような、そんなクルマを創れるのは馬鹿みたいに情の深いイタリア人だけだと、僕はイタ雑を始めた時とおんなじ気持でまだ信じている。
イタリア自動車雑貨店 太田一義