文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
あの人は今
元レーシング・ドライバーのアレッサンドロ・ナンニーニ氏(日本ではナニーニと表記されてきたが、本稿ではイタリア語により近いナンニーニと記す)といえば、1989年F1日本グランプリにおける、波乱の展開を経ての優勝を覚えておられる方は多いだろう。翌90年のヘリコプター事故で瀕死の重傷を負いながら、92年には「アルファ・コルセ」でサーキットに復帰。続いてDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)に挑戦した。
そのナンニーニ氏は、筆者が四半世紀にわたって住む中部トスカーナ地方シエナの出身である。実家は、祖父が興したシエナ屈指の菓子店、その名も「ナンニーニ」だった。参考までに、姉ジャンナ氏はミラノで歌手を目指し、今日イタリアを代表するロックシンガーとして不動の地位を確立している。
2023年で64歳を迎える現在、ナンニーニ氏は食品やカフェの商標管理やコンサルティングに携っている。シエナ旧市街を見渡す郊外の自邸に住み、高い塀に囲まれた庭には数え切れないほどのオリーブの木が育っている。枝の下では、彼の白い愛犬がのんびりと昼寝をしている。夏は、2カ月近くサルデーニャ島に拠点を移して過ごす。それが元F1パイロットの今の暮らしだ。

アレッサンドロ・ナンニーニ氏。自邸前で2021年夏撮影。

ナンニーニ邸の応接間にて。2021年夏。

DTM時代、自らが駆ったアルファ・ロメオ155 V6 TIのモデルカーが保管されていた。
広場のカフェにて
シエナの中心であるカンポ広場。夏にはイタリア屈指の伝統行事である競馬「パリオ」が催されることで有名だ。いくつも立ち並ぶバールの屋外席は、セネーゼ(シエナ人)にとって憩いの場である。その中のひとつに、ナンニーニ氏の姿を見かける日がある。「もともと私は、こういう田舎の生まれだからね」と、街への愛着を語る。
正面の「パラッツォ・ブッブリコ」は、市役所である。だが、13世紀から16世紀にかけてシエナが独立共和国だった時代は、政庁舎だった由緒ある館だ。
市役所といえば、実はナンニーニ氏は2011年、シエナの市長選挙に中道右派政党の推薦で立候補したことがあった。一帯はイタリアでもとくに左派勢力が強い一帯ということもあり、結果は落選に終わった。公約としていた地元飛行場の拡張をはじめとする交通インフラ整備も実現しなかった。彼は2015年に筆者に「政治は私にとって、けっして居心地の良い場所ではなかった」と語っている。
ただし社会に対する関心は、いまだ強い。彼と電気自動車(EV)の話をしたときだ。「息子はテスラが欲しいと言ってはばからない。しかし、EVは、使用済み電池の問題まで広い視野で考えないといけない」と釘を指す。そしてこう付け加えた。「環境保護を大義名分にしたビジネスがあることにも気をつけなければならない」

祖父が興した菓子店兼カフェは、今もシエナのメインストリートにある。2021年6月撮影
「ナンニーニ」のショーケースにディスプレイされたシエナの伝統菓子「パンフォルテ」。
やんちゃなお坊っちゃま
クルマの話は続く。近年はムジェッロ・サーキットの「ヒストリック・ミナルディ・デイ」に毎年ゲスト参加してきた。「アルファ・コルセ時代に一緒に戦ったニコラ・ラリーニとも会えるからね」
筆者が彼とエスプレッソ・コーヒーを傾けている間にも、「よう、アレッサンドロ!」 と、通りがかりの人々が彼に声をかける。
昔からの仲間たちだ。彼らにとってナンニーニ氏は、元F1パイロットというヒーローである以上に、今も“同志”である。
それを窺い知ることができるのは、筆者の知人である地元男性の回想だ。彼は高校時代、ナンニーニ氏とたびたびバイクを連ねて走ったことを誇らしげに話してくれた。シエナは1965年、他都市に先駆けて、旧市街全域で自動車通行を締め出した街である。にもかかわらず、広場をアレッサンドロとぐるぐる回ったという。
実際のところはどうなのか? その質問に、ナンニーニ氏はこんな話を披露してくれた。
「当時私はKTMのバイクに乗っていたんだ。対して、追ってきた市警察はモトグッチ。彼らは全然、聖カテリーナ教会前(筆者注:シエナの名所のひとつ)の急坂を登れなかったね!」。つまりナンニーニ氏は見事逃げ切ったのだ。名門菓子舗の、やんちゃなお坊っちゃまぶりが目に浮かぶ。
当時とまったく同じ風景が広がる街は、そうした限りなくオフレコに近い武勇伝のリアリティを限りなく増幅させる。だから晴れた日になると、ナンニーニ氏がいないか、思わずバールの屋外席を見回してしまうのである。

シエナのカンポ広場。向かいに見えるのがパラッツォ・プッブリコ。2022年6月、古典車ラリー「ミッレミリア」当日に撮影。
カンポ広場でくつろぐナンニーニ氏。2021年秋撮影。